ヨムタカの読書録

出会った本の感想録と歓びの共有を目指すブログ

<ボヴァリー夫人>~人妻の芸術的な破滅への道のり

多くのフランス文学作品の中でも、知名度で言えばかなり上位に名を連ねるであろうこの作品は、後続の文学者/芸術家達への影響も強く、まさに世界で愛されている小説と言えるだろう。人妻エンマの感情が幸福と不幸を間を物凄い振れ幅で揺れ動く様が、極めて緻密な文体で描かれており、その破滅への道のりはまさに芸術的と言う他ない。『ボヴァリー夫人』(ギュスターヴ・フロベール 著/芳川泰久 訳/新潮文庫

 

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冴えわたる絶望の描写

本書の世間的な評価の一つとして、自然主義文学の幕を開けた作品だという定説がある。確かに写実的な描写(写実的=自然主義的とは一概にいえないのだろうが、)に相当数のページが割かれており、聞きなれない当時の生活用品や習慣も頻繁に出てくるので、もしかしたら前半に読みづらさを感じる部分があるかもしれない。ただ、それは一瞬グッと堪えて読み進めてほしい。そうした細部を飛ばさずに読み込むことで、架空の田舎町が眼前に起ちあがってくる。そうして舞台背景がこの身に染みついた後は、この素晴らしい物語世界を全力で楽しむだけである。

僕にはフロベールの感情描写は幸せなときより、不幸な時のが冴え渡るように感じられる。もちろん幸福なシーンでも、現代と比べ性的描写を直接的に描けない(それでも裁判になるほど当時としては過激な内容だが)中、思わずため息がでるような比喩表現を活かした美文が多く見受けられる。一方、絶望に襲われているエンマのシーンは同じく比喩表現が多く使われているが、小説というより詩を読んでいるような印象を与えられた。以下は、不倫相手ロドルフに駆け落ちを断られ、思わず家の窓から飛び降り自殺を図ろうとするシーン。

下からじかに昇ってくる明るい日の光に、身体の重みじたいが奈落へと引き寄せられる。広場の地面が揺れ、家の壁づたいに迫り上ってくるように思われ、床も端のほうが傾くようで、まるで縦揺れしている船みたいだった。自分はまさに船べりの、ほとんど浮いているような高みにいて、周囲に果てしない空間が広がっている。空の青さが染み入ってきて、空っぽの頭のなかを大気が駆けめぐり、みをゆだねるだけでいい、受けとめてもらうだけでいいのだ、そして、轆轤のうなりはとぎれずにつづき、まるで自分を呼ぶ怒り狂った声のようだ。

エンマは、この後恋愛に溺れ借金に塗れて、最終的には死に至る。そこまでの描写もさることながら、死んだ後の夫シャルルの不幸具合は思わず目を背けたくなるほど真に迫っている。

フローベールと19世紀フランス

フロベールはどちらかというと寡作な作家であり、『ボヴァリー夫人』を書き上げるのにも、執拗なまでに推敲を重ねることで、約4年半もの歳月をかけて完成されたという。地方の外科医の息子として生まれ、、当初は父の勧めで法学を学ぶも、体調を崩し、それ以降は家族の目が届く範囲での隠遁生活に入る。幼いころから文学への思いれは強く、執筆は相当に早い段階から行っていたようだが、実質のデビュー作である『ボヴァリー夫人』を書き上げるのは30代半ばである。良俗恥辱であるとして裁判ざたになった影響もあり『ボヴァリー夫人』は大変な売れ行きであったようだ。その後も著作や戯曲を発表していくが、評価は作品によって大きく異なり、発表当時にあまり認められなかった作品の一部は、彼の死後カフカなどの20世紀に活躍した文学者達に愛され、評価が見直されていくこととなる。

フロベールが生きた時代のフランスは王政⇒共和制⇒帝政⇒共和制と多くの革命や政体変化、更にはヨーロッパ諸国との戦争に彩られた激動の時代だった。ボヴァリー夫人』が発表された1857年のフランスでは、ナポレオン三世の帝政下初期の好景気を背景にパリ改造や鉄道の敷設、下水道の完備などが進められており、当時としては比較的平和な時代だったのではないだろうか。父の残した財産から、働かなくても困らない程度に富裕層であったフロベールは(晩年は新作戯曲の失敗から経済的に困窮する)、そうしたパリの変化を田舎で耳にし、憧れを抱きながら『ボヴァリー夫人』を書き上げていったのだろう。

どのページから開いても

ちなみに、今回紹介した新潮文庫版は訳者芳川氏が書いている解説が非常に興味深い。本書をめぐる裁判の話や、フロベールがどのように文体へこだわったのか、それを翻訳するのにどのような工夫がなされているのかが簡潔に記されており、本書の理解が深まる。

ストーリを楽しむのももちろんだが、上記のような文体への理解を深めていけば、どのページから開いても、詩を読むような気持で楽しむことができ、再読/精読へも最適な一冊である。