ヨムタカの読書録

出会った本の感想録と歓びの共有を目指すブログ

失われた時を求めて『第一篇スワン家のほうへ』~記憶の旅への入り口

二十世紀のフランス文学最高峰の一つとして名高く、主人公と著者が重なり合いながら、わずかな記憶の断片を集め、重層的な世界を構築していく。記憶をたどること、人を愛すること、行ったことのない土地へ想いをはせること、そうした一つ一つをこんなにも綿密に描く作品はきっと他にないだろう。『失われた時を求めて 第一篇スワン家のほうへ』(マルセル・プルースト著/吉川一義 訳/岩波文庫

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この『スワン家のほうへ』という一篇の中には、しばしば現在の時間軸で挿話をはさみながら、主人公の幼少期及びスワンの恋愛譚が記されている。本書は第一篇だけでも多くのテーマをはらんでおり、『失われた時を求めて』のテーマとしてよく紹介される無意識的記憶については、有名なマドレーヌの挿話も含めて主に各章の終始に配置されている。確かに、記憶や時間というのは重低音のように本書全体に響いているが、物語の中では、愛や美という形而上的テーマや登場人物の容姿/人間性が比喩を多用しながら、詳細に分析/描写されている。

オデットは横に立つと、ほどいた髪を両頬に垂らし、楽に身をかがめるように、少し踊るような姿勢で片脚を曲げて首をかしげ、元気がないと疲れて無愛想になるあの大きな目で版画に見入っていたが、そのすがたにスワンは、はっとした。システィーナ礼拝堂フレスコ画に描かれたエテロの娘チッポラにそっくりだったからである。

前半の描写もそれだけで幾分か詳細だが、本書には二文目のような美術品との比喩は極めて多くみられる。文庫内に対象となる美術品の写真/絵と補足説明が記載されており、読者はすぐに本書に描写のイメージを掴む助けを得ることができる。(その中で、気になるものや目を引くものはカラーで見るべくネットで調べてみたりするのも、一つの楽しみ方かもしれない。)

必要なのは、その相手に向ける好みが他を排除する唯一のものになることだけである。しかもこの条件が実現するのはー相手が目の前にいないこの瞬間にー、相手が同意の上で与えてくれた楽しみを追い求めるかありに、突然われわれの心中に、この同じ相手を対象とする不安な欲求が生じるときである。

前後の文脈は省略したが、上記はスワンの恋の芽生えについて記してあるシーンである。時にはここに様々な隠喩を交えながら、人の感情や芸術への感動を記していくので、長ったらしく感じるかもしれないが、集中して読んでいくとその深淵な分析力/観察力に舌を巻くことになるだろう。

他にも、社交界での皮肉交じりの会話や幼い恋の様子など、比較的気軽に楽しめる部分も多くあるが、気づかぬ間にプルーストの世界とでも呼ぶしかない、深い洞察力に裏打ちされた高度な表現を目にするだろう。

19世紀後半~20世紀初頭のフランスとマルセル・プルースト

19世紀後半の普仏戦争敗北により、フランスは第二帝政が崩壊。パリコミューンを経て、第三共和政が成立。知識人達は、この普仏戦争の敗北という恥辱を強く感じていた時代でもあり、ナポレオン戦争時とは異なり、ドイツの産業発展はすさまじく、フランスは自らの後進性を意識せずにはいられなかった時代でもあった。

プルースト第三共和政の成立時期にパリのブルジョア階級の息子として誕生している。彼が『失われた時を求めて』が出版されたの1913年からだが、様々な断章やメモも含めて20世紀入ったくらいから構想自体はあったのではないだろうか。

本書の解説等を参照すると、第一篇は主人公の幼少期が1883年~94年程度、スワンの恋は大体1870年代、度々挿入される現代の時間軸は出版された1910年代という区分けのようである。1913年からは第一次世界大戦が勃発するが、本書の舞台となっている19世紀末は、まだパリも田舎も平和な雰囲気を醸し出している。もちろん上層部は同盟網の構築や植民地政策などに忙しくしているが、国民はそれぞれの階級に応じた暮らしぶりをまだ満喫できていたようだ。

難解ではないが、集中力を要する

私も難解であるという評判やボリュームの多さに避けてきたが、かねてより一度は読んでみたいという思いがあり、今般とりあえず第一篇から挑戦してみた。結果としてどうだったかというと、難解であるという評判はやや正確ではない。使われている言葉に難解さはなく、芸術作品の知識は必要だが丁寧な注釈がある程度は補完してくれるので、こちらもほぼ苦にはならい。強いて言えば、一つ一つの文章が長く、精密な描写へのこだわりが感じられる為、読むのに集中力がいる。ただ、退屈かと言われると、そんなことはなく、独特な読後感ももたらしてくれる。僕もまだ第一篇に取り掛かったばかりなので、続編にも是非チャレンジしていきたい。