コンビニに生まれかわってしまっても~淡々とした描写から地続きで映される想い
日常的に行う動作、目につくもの、ふと思う事、それはたぶん多くの人が共通していることだろう。本書ではそんな日常的な感覚/知覚を切り出し、詠っている歌が多い。切り出し方は奇抜ではなく、あくまで淡々とした描写に終始するが、それが逆に作者の想い/絶望/祈りなどを強く読み手に印象づける。『コンビニに生まれかわってしまっても』(西村 曜 著/書肆侃侃房)
気づき/連想の力
本作の歌は題材となっている世界は実は物凄く狭い。コンビニだったり、インターネットの検索窓だったり、雨だったり。そんな小世界で繰り広げられている生活/景色を飾らず、そのままの形で歌にする。
塾帰りらしき少年遠い目でちゃいなマーブルレジに投げ置く
コンビニが逆に売り出す塩むすび僕はふつうに選ばなかった
どちらも、もはや『ふつうに』友人との会話でもあり得る文章だが、こうして短歌として切り取られると、当たり前だと思っていた日常にじんわりと違和感が投げかけられ、大げさに言えば『芸術』として僕らの前に現れてくる。
ク、と蛇口を占める音してああ君がさみしいことに気づいてしまう
受付の乾いた事務用海綿にいつかスミノフ飲ませてあげる
この二首はふとした時に目にするもの、耳にするものから様々な想いが連想されており、まさに現代短歌の得意とする領域だが、本書の歌は連想が地続きで急激な飛躍はない。『ク、と蛇口を~』の歌もそうだが、特に音に着目した歌に僕は魅力を感じた。
ぷっときてくくくと降ってあー可笑しかったとあがる初夏の雨
「えんえん」を「えいえん」と言うひとなのでえいえん話すベッドで床で
窓から見る景色や今話している人のちょっとした癖には、様々な音が隠れていて、それはその人の感性によって共感や違和感につながる。そんな気づきによって、僕自身も少し余裕をもって世界を見ることができるようになった気がする。
コンビニに生まれかわる
表題になっているだけあって以下の歌は、他の歌と比べるとパンチが強い。
コンビニに生まれかわってしまってもクセ毛で俺と気づいてほしい
とはいえ、これだけ歌風が違うのかといわれると、パンチが強い歌は他にもあって、そもそも歌風と呼ばれるものが本書には良い意味で定まっていない気がする。視点を変え、一人称を変え、ここには挙げきれないが様々な種類の歌が載せられている。なにが、気に入るかは人によって、その時に気分によって変わるだろうから、親しい人と回し読みしながら語り合うのもよいかもしれない。