ヨムタカの読書録

出会った本の感想録と歓びの共有を目指すブログ

<エマ>~自信過剰な甘やかされっ子の物語

エマは不完全な女性である。勝手に近所の男女に縁組を持ち掛けたり、自らの観察眼/分析能力を過信し、トンチンカンな不倫を想像したり、人の性格を決め付けたりと自信過剰な甘やかされっ子だ。然し、物語が進むにつれて、半ば親のような気持ちで、きっと同じような失敗を何度もする彼女を愛おしいと感じてしまうに違いない。『エマ』ジェイン・オースティン 著/中野 康司 訳/ちくま文庫

 

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エマのダメダメな魅力

父親に甘やかされて育ったエマは、周りの人々へ余計なおせっかいを焼くことが趣味だ。

ハリエット・スミスの会話には頭の良さは感じられないが、とても感じのいい子だとエマは思った。内気すぎることもなく、無口でもなく、出過ぎたところもなく、自分の身分をわきまえている。(中略)しっかりした良識のある子だ。これは善導してあげなければいけないとエマは思った。そう、善導してあげなければいけない。

上記は近くに住むハリエット・スミスという女の子を勝手に教育して、立派なレディにしようと考えている時のエマの心情である。自らが気に入れば、素晴らしい人として評価し、勝手に上の身分と結婚させようとし、その結果スミスが過剰な自信をもってしまうと、エマは過大な望みを持たせてしまったと反省する。然ししばらくすると、またおせっかいの虫が騒ぎ出し、違う恋をスミスにけしかける。それだけ聞くとただの学習しないおバカさんだが、しばしば真理をついたような発言も目に付く。

非凡な能力の人が怠惰でいるより、並みの能力の人が最善を尽くすほうが、ずっといいわ。

 

たとえ愚かなことでも、頭のいい人が堂々とやると、愚かなことではなくなるんだわ。悪事はいつも悪事だけど、愚行はいつも愚行とは限らない。

賛否は色々あるだろうが、こうした発言は現代でも十分に価値のある議題だと言えるだろう。

上記ではダメダメながらも魅力あふれる主役エマにフォーカスしたが、その他にもジェイン・オースティンお得意の愚かでおしゃべりな夫人連中は本作でも登場し、我々を楽しませてくれる。また、エマの良き指導者でもあるナイトリー氏とエマの会話/掛け合いは思わずどちらかの味方につくか悩んでしまうような白熱した展開をみせる。 

 十八世紀末イギリスの身分制について

本書を通じて(本書のみならずジェイン・オースティンの作品ほとんどで)話題になっているのが『結婚』である。特に、本作品では『あの人とあの人では結婚の身分が違いすぎる』『彼はそんな身分違いの結婚をするほど愚かではない』等々、身分違いかどうかが至るシーンで話題となっている。

当時のイギリスの身分制度は、ざっくり言うと国王、貴族、ジェントリ(地主階級)、ブルジョア、庶民という形になっていたようである。もちろん、貴族の中には侯爵/伯爵等々、さらに階級は分かれていたし、ジェントリの中にも準男爵などの貴族に準じる称号をもつ人々もいたようだ。基本的にジェントリ以上の身分の人々は自ら働くことはなく、ジェイン・オースティンの主役たちの家も持っている土地の管理などをしつつ、使用人等を雇いながら、比較的裕福な生活をしている。

例えば、商人(いわゆるブルジョア層)の娘スミスが、ジェントリ階級のナイトリー氏に見初められようとするシーンではエマは『身分違い』だと言っている。しかし、産業革命以後、都市部ではブルジョア層の活躍は目覚ましく、フランス等の大陸諸国で革命が起きる中、イギリスでは徐々に議会での権力がブルジョアを中心にした市民層へ移っていく。

然し、今でもイギリスでは身分制度は残っており、お互い一定の住み分けをしながら社会が成立しているというは、大陸諸国と比べると稀有なことであり、それを成立させてしまうところにイギリス人の気質/魅力があるのかもしれない。

エマを好きになれるか

高慢と偏見 』のエリザベスとも違い、『マンスフィールドパーク』のファニー・プライスとも違う。この二人はどちらかというと、できた人間だが、エマは極端に言えば、自信過剰の勘違い女である。物語が進んでいく中で、なぜナイトリー氏がエマを気に入るのかわからないという人もいるかもしれないが、個人的には『ああ、なぜかそれでも好かれる女性いるよね』という気がしないでもない(しかもエマは美人だ)。僕としては、他の2人より人間味があり、愛せるキャラクターだと思うが、このあたりの好き嫌いは分かれるところかもしれない。

ネタバレになるので、触れていないが本作は少し推理小説要素も入っており、ジェイン・オースティン円熟期の作品として、様々な角度から楽しめる。ぜひ、裕福なジェントリのわがまま娘の物語に触れてみていただきたい。

 

 

エマ(上) (ちくま文庫)

エマ(上) (ちくま文庫)

 

 

失われた時を求めて『第一篇スワン家のほうへ』~記憶の旅への入り口

二十世紀のフランス文学最高峰の一つとして名高く、主人公と著者が重なり合いながら、わずかな記憶の断片を集め、重層的な世界を構築していく。記憶をたどること、人を愛すること、行ったことのない土地へ想いをはせること、そうした一つ一つをこんなにも綿密に描く作品はきっと他にないだろう。『失われた時を求めて 第一篇スワン家のほうへ』(マルセル・プルースト著/吉川一義 訳/岩波文庫

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この『スワン家のほうへ』という一篇の中には、しばしば現在の時間軸で挿話をはさみながら、主人公の幼少期及びスワンの恋愛譚が記されている。本書は第一篇だけでも多くのテーマをはらんでおり、『失われた時を求めて』のテーマとしてよく紹介される無意識的記憶については、有名なマドレーヌの挿話も含めて主に各章の終始に配置されている。確かに、記憶や時間というのは重低音のように本書全体に響いているが、物語の中では、愛や美という形而上的テーマや登場人物の容姿/人間性が比喩を多用しながら、詳細に分析/描写されている。

オデットは横に立つと、ほどいた髪を両頬に垂らし、楽に身をかがめるように、少し踊るような姿勢で片脚を曲げて首をかしげ、元気がないと疲れて無愛想になるあの大きな目で版画に見入っていたが、そのすがたにスワンは、はっとした。システィーナ礼拝堂フレスコ画に描かれたエテロの娘チッポラにそっくりだったからである。

前半の描写もそれだけで幾分か詳細だが、本書には二文目のような美術品との比喩は極めて多くみられる。文庫内に対象となる美術品の写真/絵と補足説明が記載されており、読者はすぐに本書に描写のイメージを掴む助けを得ることができる。(その中で、気になるものや目を引くものはカラーで見るべくネットで調べてみたりするのも、一つの楽しみ方かもしれない。)

必要なのは、その相手に向ける好みが他を排除する唯一のものになることだけである。しかもこの条件が実現するのはー相手が目の前にいないこの瞬間にー、相手が同意の上で与えてくれた楽しみを追い求めるかありに、突然われわれの心中に、この同じ相手を対象とする不安な欲求が生じるときである。

前後の文脈は省略したが、上記はスワンの恋の芽生えについて記してあるシーンである。時にはここに様々な隠喩を交えながら、人の感情や芸術への感動を記していくので、長ったらしく感じるかもしれないが、集中して読んでいくとその深淵な分析力/観察力に舌を巻くことになるだろう。

他にも、社交界での皮肉交じりの会話や幼い恋の様子など、比較的気軽に楽しめる部分も多くあるが、気づかぬ間にプルーストの世界とでも呼ぶしかない、深い洞察力に裏打ちされた高度な表現を目にするだろう。

19世紀後半~20世紀初頭のフランスとマルセル・プルースト

19世紀後半の普仏戦争敗北により、フランスは第二帝政が崩壊。パリコミューンを経て、第三共和政が成立。知識人達は、この普仏戦争の敗北という恥辱を強く感じていた時代でもあり、ナポレオン戦争時とは異なり、ドイツの産業発展はすさまじく、フランスは自らの後進性を意識せずにはいられなかった時代でもあった。

プルースト第三共和政の成立時期にパリのブルジョア階級の息子として誕生している。彼が『失われた時を求めて』が出版されたの1913年からだが、様々な断章やメモも含めて20世紀入ったくらいから構想自体はあったのではないだろうか。

本書の解説等を参照すると、第一篇は主人公の幼少期が1883年~94年程度、スワンの恋は大体1870年代、度々挿入される現代の時間軸は出版された1910年代という区分けのようである。1913年からは第一次世界大戦が勃発するが、本書の舞台となっている19世紀末は、まだパリも田舎も平和な雰囲気を醸し出している。もちろん上層部は同盟網の構築や植民地政策などに忙しくしているが、国民はそれぞれの階級に応じた暮らしぶりをまだ満喫できていたようだ。

難解ではないが、集中力を要する

私も難解であるという評判やボリュームの多さに避けてきたが、かねてより一度は読んでみたいという思いがあり、今般とりあえず第一篇から挑戦してみた。結果としてどうだったかというと、難解であるという評判はやや正確ではない。使われている言葉に難解さはなく、芸術作品の知識は必要だが丁寧な注釈がある程度は補完してくれるので、こちらもほぼ苦にはならい。強いて言えば、一つ一つの文章が長く、精密な描写へのこだわりが感じられる為、読むのに集中力がいる。ただ、退屈かと言われると、そんなことはなく、独特な読後感ももたらしてくれる。僕もまだ第一篇に取り掛かったばかりなので、続編にも是非チャレンジしていきたい。

 

 

コンビニに生まれかわってしまっても~淡々とした描写から地続きで映される想い

日常的に行う動作、目につくもの、ふと思う事、それはたぶん多くの人が共通していることだろう。本書ではそんな日常的な感覚/知覚を切り出し、詠っている歌が多い。切り出し方は奇抜ではなく、あくまで淡々とした描写に終始するが、それが逆に作者の想い/絶望/祈りなどを強く読み手に印象づける。『コンビニに生まれかわってしまっても』(西村 曜 著/書肆侃侃房

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気づき/連想の力

本作の歌は題材となっている世界は実は物凄く狭い。コンビニだったり、インターネットの検索窓だったり、雨だったり。そんな小世界で繰り広げられている生活/景色を飾らず、そのままの形で歌にする。

塾帰りらしき少年遠い目でちゃいなマーブルレジに投げ置く

コンビニが逆に売り出す塩むすび僕はふつうに選ばなかった

どちらも、もはや『ふつうに』友人との会話でもあり得る文章だが、こうして短歌として切り取られると、当たり前だと思っていた日常にじんわりと違和感が投げかけられ、大げさに言えば『芸術』として僕らの前に現れてくる。

ク、と蛇口を占める音してああ君がさみしいことに気づいてしまう

受付の乾いた事務用海綿にいつかスミノフ飲ませてあげる

 この二首はふとした時に目にするもの、耳にするものから様々な想いが連想されており、まさに現代短歌の得意とする領域だが、本書の歌は連想が地続きで急激な飛躍はない。『ク、と蛇口を~』の歌もそうだが、特に音に着目した歌に僕は魅力を感じた。

ぷっときてくくくと降ってあー可笑しかったとあがる初夏の雨

「えんえん」を「えいえん」と言うひとなのでえいえん話すベッドで床で

 窓から見る景色や今話している人のちょっとした癖には、様々な音が隠れていて、それはその人の感性によって共感や違和感につながる。そんな気づきによって、僕自身も少し余裕をもって世界を見ることができるようになった気がする。

コンビニに生まれかわる

表題になっているだけあって以下の歌は、他の歌と比べるとパンチが強い。

コンビニに生まれかわってしまってもクセ毛で俺と気づいてほしい

とはいえ、これだけ歌風が違うのかといわれると、パンチが強い歌は他にもあって、そもそも歌風と呼ばれるものが本書には良い意味で定まっていない気がする。視点を変え、一人称を変え、ここには挙げきれないが様々な種類の歌が載せられている。なにが、気に入るかは人によって、その時に気分によって変わるだろうから、親しい人と回し読みしながら語り合うのもよいかもしれない。

 

コンビニに生まれかわってしまっても (新鋭短歌シリーズ41)

コンビニに生まれかわってしまっても (新鋭短歌シリーズ41)

  • 作者:西村 曜
  • 発売日: 2018/08/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

<リチャード三世>~リアリスト男の激動な生き様

これほどに癖のある人物を主役に据えた戯曲も、現代の目線からするとかなり珍しく映る。見た目は醜悪だが冷徹で現実主義な男が、あらゆる人を口説き落とし、多くの人を殺害して、自らの野望を実現させ、最後には自ら運命に飲み込まれて命を落とす。なにか大きなものがゴロゴロと流れていくようなセリフと共に、激動の薔薇戦争を生き抜くリアリストな男の歴史劇。『リチャード三世』(ウィリアム・シェイクスピア 著/福田恆存 訳)

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急激な展開を納得させる台詞力

多くの名台詞を残したシェイクスピアだが、リチャード三世においてもその筆は遺憾なく発揮されている。僕の感覚ではシェイクスピアの他作品を読む場合、独白において、心打たれる部分が多く感じられるのだが、本作では他者との会話に心惹かれた。リチャード三世の才気煥発さはあらゆるシーンで感じ取ることができるが、強いて個人的なお気に入りを上げるとすれば、一幕二場のアンとグロスター(リチャード三世)のシーンだろうか。

グロスター:こうしてプランタジネット家のヘンリー王とエドワードと、二人を非業の死にあわしめた張本人こそ、首斬り役人も同然、憎んでも倦きたりぬ奴とは思いませぬか。

アン:呪われた運命、その、事の起りはお前なのだ。

グロスター:事の起りとあれば、その美しさだ。寝ても醒めても心を去らぬその美しい面影に、世のあらゆる男を手にかけてもと思いつめた、たとえ一時でも、その優しい胸に抱かれさえしたならばと。

アン:それと知ったら、ああ、人殺し、この爪で自分の頬を引き裂きもしたであろうに。

 アンというのは、リチャード三世が殺した王子エドワードと妻であり、同じくリチャード三世に殺されたヘンリー王の義理の娘にあたる。その人に向かって、リチャード三世は義父と夫を殺したのはあなたが美しすぎるせいだと、訳のわからない理屈をこね、その後愛の告白まで成功させる。最後にはアンも許しを与えるのだから、もはやまともな感覚では理解不可能だ。

もちろん劇中の話であり、特にシェイクスピアの時代の戯曲における人々の心情は文字通り『劇的に』変化するので、そのまま実生活の感覚に合わせるわけにはいかない。ただ、『いくらなんだってそれはおかしいぜ』と思われてしまっては当時の観衆へも響かないわけで、読んでいくと不思議と納得させられてしまうというか、本作であればリチャード三世の口八丁に舌を巻くことはあっても、そこまで強い違和感を覚えることはない。

リチャード三世の時代と歴史背景

シェイクスピアはあらすじを知っていないと初見ではわかりづらい作品が多いが、特にリチャード三世はシェイクスピアの時代を生きたイギリス人であれば当然に知っていた歴史をベースに書かれているので、現代の且つ日本人が読む場合は歴史的背景をさらった上で読んだ方が楽しめるだろう。

リチャード三世の時代のイギリスはフランスとの百年戦争と呼ばれる長期にわたる戦争(かの有名なジャンヌ・ダルクがフランスを逆転に導く)でほぼ負けが確定しつつある中、ヘンリ六世という王が即位していた。このヘンリ六世が敗戦のショックからか、精神病にかかってしまう。そこで王妃であるマーガレットが摂政に名乗りでるが、そこに王家親族のヨーク侯爵が待ったをかける。ここにマーガレット側(ランカスター家/赤バラが家紋)とヨーク侯爵側(ヨーク家/白バラが家紋)の薔薇戦争が勃発することになる。

このヨーク伯爵の3男がリチャード三世である。史実とは異なるが、本作に中では、リチャード三世がヘンリ六世を殺し、エドワード王子(先ほど抜粋したアンの夫)を殺し、実の兄を殺し、兄の子供(甥)を殺し、王位に就くという野望を果たすことになる。実は先ほど抜粋したアンはエドワード王子が死んだ後、史実でもリチャード三世の妻となっている。このアンの父親が強かな男で、ランカスター家についたり、ヨーク家についたりと娘の結婚を利用しながら、薔薇戦争でも重要な役割を果たしている。
最終的には、フランスへ退避していたリッチモンド(ランカスター家の人物だが、ヨーク家の女性と結婚)がリチャード三世を倒し、薔薇戦争は終結し、テューダ朝の開始となる。このテューダー朝の最後であるエリザベス女王の時代こそ、シェイクスピアが生きる時代でもあるわけだ。
シェイクスピアとしては、このテューダー朝の正当性を謳う為にも、リチャード三世は悪者である必要があったが、様々なところで言及されている通り、実際は甥や兄を殺したという証拠はなく、勤勉で公正な支配者だったようだ。
 

シェイクスピアの楽しみ色々

シェイクスピアが初見であれば、ややリチャード三世は楽しみずらいかもしれないが、かの有名なハムレットやマクベスであれば、同じ復讐劇でももう少し入りやすい。ただ、いずれもあらすじはさらってから読むことをお勧めする。特にあらすじを知ったからといって、楽しみが減少するような作品ではないし、むしろセリフ自体を楽しむことができるだろう。一読した後は、やはり戯曲なので、本ではなく舞台(DVDになってるものでもよい)を見てみることが最大の楽しみだろう。
また、少し歴史的背景も紹介したが、とてもじゃないが、薔薇戦争の全貌は書ききれない(とりあえず何人も同じ名前の人が出てきて理解するのに一苦労である。自分で家系図を書きながら、関連書籍を読んだ記憶がある)。ただ、実はこのリチャード三世の前にヘンリー六世3部作という作品もあり、もしこの時代をテーマとしたシェイクスピアに興味があれば、そちらに手を伸ばしてみるのもよいかもしれない。

 

 

<ジーキル博士とハイド氏>~想像力の向こう側

日本でも度々ミュージカルが上演され、子供向けの本も多く出版されているので、日本でも相当に知名度が高いだろう本作は、実は文庫本にして約130ページ程度と短い話だ。本書の最大の魅力はハイド氏が纏う雰囲気であり、ジーキル博士の苦悩の姿であろう。悪を濃縮したような人物やそこから戻れなくなる苦悩は、きっと自分の想像を超える凄まじさだろうが、限られた描写から思わずそこへ想いを馳せてしまう。『ジーキル博士とハイド氏』(ロバート・ルイス・スティーブンスン 著/ 村上 博基 訳/光文社古典新訳文庫

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ハイド氏を見ると誰もが、本能的な憎しみを覚える。

アスタン氏が彼に抱くこれまでのところ皆目解せぬ、おぞましさ、嫌悪、恐怖の説明にはならい。<ほかになにがあるんだ>困惑のすえに思うのはそれだった。<もっとなにかあるんだが、あてる言葉がみつからない。いやもう、あれは人間なんてものじゃない。原始人というか、それとも、りゆうなき嫌われものというやつか。

ハイド氏の見た目についは実はそれほど多くの描写があるわけではなく、服装を覗けば特徴としては、小柄で毛深いということが記載されてるくらいではないだろうか。その容姿から発せられる『おぞましさ、嫌悪、恐怖』は、主に彼を目にする登場人物達の目を通して語られている。恐怖の度合いは読者の想像力に任されているという事だが、それはホラー映画的なショッキング具合はないものの、徐々に鳥肌がたつような、背筋が凍るような、そんな感覚を覚える。 

本書は前半に弁護士アスタン氏の目を通して事件の全容が語られた後、ドクター・ラニヨンとジーキル博士の遺言で事件の種明かしがされるという構想になっている。ジーキル博士の遺言はそれ単体でも十分に魅力をもっており、ハイド⇔ジーキルという変化は見た目だけでなく頭脳や精神をも変化させることから、この苦悩は根が深い。

犯罪の完遂にほくほくしながら、今後の計画を考えて陶然となり、他方ではまだ足をいそがせ、背後に報復の足音がきこえないかと耳をすましていた。ハイドは唇に歌をのせて薬を調合し、死者にグラスを上げてほした。変身の激痛がハイドを責め苛むのをやめぬうちに、ヘンリー・ジーキルは感謝と悔悟の涙を滂沱と流し、ひざまずいて神の前に両手をにぎり合わせた。

ジーキルと同じ経験をしたことがある人物は誰もいないはずだが、不思議と自分のことのようにジーキルの苦悩をこの身に感じてしまう名文が続いている。

 

19世紀後半のイギリスとスティーブンソン

19世紀後半のイギリスではヴィクトリア女王のもと、保守党/自由党の二大政党が定着し、他ヨーロッパ諸国より先んじる形で、大衆民主政治が浸透し選挙法改正や初等教育の義務化など大衆を意識した諸改革が推進された。一方、ストライキも活発となり、労働者と社会主義者らが結びつくことで、将来の労働党へと繋がる動きもみられた。対外政策では19世紀を通して、植民地拡大を続け、インド帝国の皇帝へエリザベス女王が即位するなど、女王も王侯世界における地位の向上を果たした。女王の在位60周年式典(1897年)には帝国各地から陸海軍が集結し、帝国の繁栄を象徴した。

ジーキル博士とハイド氏』はイギリスの小説家スティーブンスンによって、1886年に出版されたので、19世紀後半のイギリス概要を記載したが、実はスティーブンスンは人生の半分ほどを国外で過ごしている。幼少期から、父の勧めで法学を志すも、文学への気持ちが諦められず、エッセイなどの文筆活動を精力的に行う(この辺りは、約半世紀前のフランス小説家フローベールと似ている。。)その後健康回復の為、フランスへと渡り、そこで恋した人妻を追ってアメリカへ渡る。その後、イギリスへ戻るもまた療養のためスイスへ渡り、フランス、南イングランドタヒチ、ハワイと44歳で急死するまで世界中を転々としている。スティーブンスンは『宝島』の作者としても有名だが、晩年は怪奇小説を多く書いていたらしいので、『ジーキル博士とハイド氏』の方が、お気に入りだったのかもしれない。

気軽に手に取って

本書は出版後たちまち人気となり、1年半後にはすぐに戯曲が上演されている。しかも、当時の日本人がそれを見たという事で、その紹介記事が解説に全文記されていて、これはこれで非常に興味深かった。

名前は知っているけれど読んだことがないという人も多いだろうが、2時間くらいで気軽に楽しめる作品なので、ぜひ手に取ってみてはいかがだろう。

 

 

 

<高慢と偏見>~エリザベス嬢によるスカッとストーリー

過去から何度も映像化/舞台化され、イギリス文学の中でも指折りの知名度を誇るであろう本作は、その構成といい主役エリザべスの立ち回りといい、多くの人に愛されてきたことがうなずける気持ちのよい読後感を僕らにもたらしてくれる。登場人物は田舎町の数家族だけというこの設定で、ここまでスカッとしたストーリーが展開できることに驚きを感じると共に、名作たる所以ではないだろうか。『高慢と偏見』(ジェインオースティン 著/中野康司 訳/ちくま文庫)

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世界中で人気なエリザベスの魅力

最初見たときは、邦題がやや硬いのでなんとも高尚なことが書かれているように感じられるが、ストーリー構成は極めてシンプルであり、非常に読み易い。本書が当初『第一印象』という題名で執筆されていることが、この作品の内容をよく表している。主な登場人物も5人姉妹の家族と隣人だけとかなり限られている上に、キャラクターもはっきりしているので、ストレスなく話に入っていける。個人的には皮肉屋のベネット氏(主役エリザベスの父)がお気に入りだが、本書ではやはり主役エリザベスの存在感が圧倒的に強い。

以下はエリザベスの親友シャーロットがコリンズ(エリザベスの従兄弟)と婚約した後のエリザベスと姉ジェインの会話である。

ねえ、お姉さま、コリンズさんはうぬぼれ屋で、尊大で、心が狭くて、そのうえひどい馬鹿よ。それはお姉さまにもわかってるはず。あんな人と結婚する女性は頭がどうかしてる。お姉さまもそう思ってるはずよ。シャーロット・ルーカスだからといって、弁護なんてしちゃだめ。シャーロットのために、節操や誠実さの意味を変えてはいけないわ。利己主義を思慮分別と思ったり、危険にたいする鈍感さを、幸福の保証だと思ったりしてはいけないわ

最初はただ、口が悪くて気の強い女性のようにも感じられるが、特に最後の文章などは、個人的にハッとさせられる部分でもあり、ただ自分が気に食わないというだけでなく、理論的な批判をしっかりと口にだせることが、彼女の最大の魅力だろう。

18世紀~19世紀初頭の女性の結婚観

18~19世紀初頭のイギリスについては、『マンスフィールド・パーク』の記事で少し触れたのが、本書を読むにあたって、当時の女性の結婚事情は更に参考になるかもしれない。以下記事でも触れた通り、当時の女性は結婚しない限りは生涯親/兄弟の援助を基に生きていかなければいけない境遇だった。

 

yomtaka.hatenablog.com

 その中で、非常に興味深いのは「訳者あとがき」にて紹介されている著者オースティン、あるいは18世紀の普遍的な人生観である。

オースティンの人生観は十八世紀的な「道徳的かつ現実主義的人生観」だと、デイヴィット・セシルという言っている。簡単に言うと「お金のために結婚するのはよくないが、お金がないのに結婚するのは愚かなことだ」と考える人生観である。

もはや別に18世紀と断ることなく、現代でも十分に通用する考え方だと思うが、お金がない人と結婚するというのは、コンビニやら安い定食屋が普及している現在よりもシビアにライフスタイルに直結する問題であったのは間違いない。ここに身分という考え方も入ってくるわけだから、各家庭における娘の結婚が、いかに一大事であったかがうかがえよう。

結婚という一大事件

本書の話題はつまるところ、結婚である。お金がある程度保証されるなら、たとえ相手が馬鹿でもやむなしと考える女性もいれば、若さと一時の情熱に踊らされ駆け落ちするカップルや相手が尊敬できる人物かをしっかりと見定める人々もいる。時代は違えど、なんら変わることのない、結婚という人生の一大事件と向き合う人々をエリザベスのはっきりした物言いで痛快に描いてくれる名作である。

ちなみに読了後、キーラナイトレイ主演の映画も見たのだが、演技もさることながら、舞踏会や当時の服装/部屋のイメージがつかめるので、かなり楽しむことができた(どこまで忠実に再現しているのかは知らないが、、)。ストーリーは映画だとかなり駆け足で進むので、本を読んでから見て頂いた方がストレスなく見れるかと思う。

 

高慢と偏見 上 (ちくま文庫 お 42-1)

高慢と偏見 上 (ちくま文庫 お 42-1)

 

 

<夜にあやまってくれ>~裂け目から覗く生々しさ

非常にスッと読みやすい歌が並んでいる。ただ、声に出して詠むというより、一人静かに黙々と心の中で詠むほうが向いている歌が多いような気がする。パッと見たときは思わず声に出してみたいような気持ちにさせられるのだが、よくよく見ると少し恐ろしい。短歌とはそういうものだと言われてしまえばそれまでだが、日常で目にする事物、感情から気味の悪い生々しさが覗いている。『夜にあやまってくれ』(鈴木晴香 著/書肆侃房)

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ひねくれた恋

本歌集全体としては、恋愛を歌ったものが多いようには感じられるが、恋人や感情を真正面から歌っているように見えて、その捉え方はすこしひねくれている。幸せな瞬間を歌ってもよいはずの場面にも、少し空々しさや哀しさが添えられており、どこか世界を俯瞰してみるような、そんな印象を持たされる。

駆け引きも億劫になる花ざかり乞われるままの恋をしている

Tシャツに濡れる背骨に触れながら君の人間以前を思う

乞われる恋というのはきっと誰かに迫られているということだろうか。相手による部分もあるが『花ざかり』な女性にとっては、誰かに恋されているというのは基本的には自慢すべきとこだと思うが、諦めに似た感情にフォーカスされている。二首目については、背骨から恐竜の化石ようなものを連想しているのだろうか、屈折した愛を感じる。

恋とは関係なく、ふとした瞬間に目の付くものを描いている歌にも少し不穏な空気が漂う。

うつ伏せた鏡は床の傷跡を一晩中映しているだろう

晴れた夜の天気予報は退屈な月を地球に降らせるばかり

『 うつ伏せた鏡』が映しているものを現実的に見ることはできない。映しているかどうか確認するすべはなく、誰にも見えなくても、そこで起っているのだろうというのはただの想像でしかない。ただ僕らはそれを前提に過ごしていくしかない。夜が晴れの場合は、天気予報に月マークが表示される。鬱屈とした気持ちがそのマークと結びつけば、退屈さを象徴するように感じられるのもわかる気がする。

単品として、歌集として

本歌集は二部構成になっており、各部の中でもテーマ別に10首ずつが分類されている。ただ、特に構成を気にせず目に留まった一首だけでも十分に楽しむことができる。僕も最初はあまり構成を気にせずじっくりと読んだ。僕は特に気に入った歌には付箋を貼ってるのだが、最後は付箋だらけになってしまった。本歌集は気分によって自分に響く歌も変わってくると思うので、ぜひ度々手に取ってテキトーにページを開いてみてもよいと思う。

 

夜にあやまってくれ (新鋭短歌シリーズ28)

夜にあやまってくれ (新鋭短歌シリーズ28)

  • 作者:鈴木 晴香
  • 発売日: 2016/09/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)