ヨムタカの読書録

出会った本の感想録と歓びの共有を目指すブログ

<宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃/加藤 文元>~数学者が向き合う世界を覗く

2020年4月、数学上の超難問『ABC予想』がついに解決されたされたというニュースを新聞紙面やニュース等で目にした方も多くいるだろう。本書の初版発行は2019年だが、このニュースがきっかけとなり多くのサイトで注目を浴び、多くの人の目に触れることになった。僕もそんな中の一人だが、本書を通してIUT理論自体の意義もさることながら、数学者が日々どのような活動をしているのか、論文とはどのように発表されているのか、数学とはなんなのかといった部分にも多くのページが割かれており、数学者が向き合っている世界をすこしばかり覗くことができる興味深い読書体験となった。『宇宙と宇宙をつなぐ数学~IUT理論の衝撃』(加藤文元 著/角川書店

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論理的且つ直感的に

本書は専門家でもが理解できないような超ハイレベルな数学理論を、何とか一般人にできる限り説明しようというある意味無謀な試みが行われている。以下は僕が高校生時代に感じた「数学がわからない、そもそもなにがわからないかわからない」という現象を非常にクリアに説明してくれていると感じた。

中学や高校でいままで知らなかった定理を学んだりするとき、我々はその証明や説明を一行一行読んで論理的に理解するという側面もある一方で、それがとても自然で、いろいろなことと整合していて、その正しさが「腑に落ちる」という意味での直感的な理解も重要でした。つまり、論理的に詳細な理解と、直感的で全体的な理解の両面が、数学における「正しさ」の認識を支えているわけです。数学がわからない、苦手だというのは、この両面のうち、少なくともどちらか一方が欠けているということなのだ、とも言えるのではないでしょうか。

 もし、高校時代に自分の「わからない」が著者の言う通り①論理的な理解②直感的な理解(=腑に落ちる)のどちらに当てはまるのか考えていれば、もう少し数学の点数は上がったかもしれない。また、本書はIUT理論の②の部分を重視して、数式を使わないレベルで、内容や意義を僕らに伝えてくれている。もちろん、理解できる範囲は極めて全体の一部なのであろうが、これがいかに数学界に衝撃を与えたか、業界内での反応はどうなのかなど、多面的な要素が記載されている。

とはいえ①の論理的な理解がおざなりにされているわけではなく、特に7章では「群論」と呼ばれるジャンルの基礎が数式とともに、非常にわかりやすく記載されている。そうした意味では知的好奇心へも十分に応えてくれる内容と言えるだろう。

多くの謎に出会う

本書の約半分は理論の前提となる学会の慣習や過去の数学者の歴史の紹介に費やされている。その中にはまだ未解決の数学的問題や長い年月をかけて解決された問題が多く掲載されている。著者は巷で話題となっているABC予想の解明というのはICU理論のごく一部で結果であり、本質は別のところにあると再三書いているが、やはり誰にも解けなかった謎を、数々の努力で解明していくというのは、計算式の世界だけではなく人間的なドラマがあるのも事実だ。本来の目的とは違うのかもしれないが、記載されている数学的な謎を道しるべにより深く数学を学んでみたい、ほかの書物も読んでみたい、そんな気持ちにさせるのも本書の大きな魅力だろう。

 

 

<ボヴァリー夫人>~人妻の芸術的な破滅への道のり

多くのフランス文学作品の中でも、知名度で言えばかなり上位に名を連ねるであろうこの作品は、後続の文学者/芸術家達への影響も強く、まさに世界で愛されている小説と言えるだろう。人妻エンマの感情が幸福と不幸を間を物凄い振れ幅で揺れ動く様が、極めて緻密な文体で描かれており、その破滅への道のりはまさに芸術的と言う他ない。『ボヴァリー夫人』(ギュスターヴ・フロベール 著/芳川泰久 訳/新潮文庫

 

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冴えわたる絶望の描写

本書の世間的な評価の一つとして、自然主義文学の幕を開けた作品だという定説がある。確かに写実的な描写(写実的=自然主義的とは一概にいえないのだろうが、)に相当数のページが割かれており、聞きなれない当時の生活用品や習慣も頻繁に出てくるので、もしかしたら前半に読みづらさを感じる部分があるかもしれない。ただ、それは一瞬グッと堪えて読み進めてほしい。そうした細部を飛ばさずに読み込むことで、架空の田舎町が眼前に起ちあがってくる。そうして舞台背景がこの身に染みついた後は、この素晴らしい物語世界を全力で楽しむだけである。

僕にはフロベールの感情描写は幸せなときより、不幸な時のが冴え渡るように感じられる。もちろん幸福なシーンでも、現代と比べ性的描写を直接的に描けない(それでも裁判になるほど当時としては過激な内容だが)中、思わずため息がでるような比喩表現を活かした美文が多く見受けられる。一方、絶望に襲われているエンマのシーンは同じく比喩表現が多く使われているが、小説というより詩を読んでいるような印象を与えられた。以下は、不倫相手ロドルフに駆け落ちを断られ、思わず家の窓から飛び降り自殺を図ろうとするシーン。

下からじかに昇ってくる明るい日の光に、身体の重みじたいが奈落へと引き寄せられる。広場の地面が揺れ、家の壁づたいに迫り上ってくるように思われ、床も端のほうが傾くようで、まるで縦揺れしている船みたいだった。自分はまさに船べりの、ほとんど浮いているような高みにいて、周囲に果てしない空間が広がっている。空の青さが染み入ってきて、空っぽの頭のなかを大気が駆けめぐり、みをゆだねるだけでいい、受けとめてもらうだけでいいのだ、そして、轆轤のうなりはとぎれずにつづき、まるで自分を呼ぶ怒り狂った声のようだ。

エンマは、この後恋愛に溺れ借金に塗れて、最終的には死に至る。そこまでの描写もさることながら、死んだ後の夫シャルルの不幸具合は思わず目を背けたくなるほど真に迫っている。

フローベールと19世紀フランス

フロベールはどちらかというと寡作な作家であり、『ボヴァリー夫人』を書き上げるのにも、執拗なまでに推敲を重ねることで、約4年半もの歳月をかけて完成されたという。地方の外科医の息子として生まれ、、当初は父の勧めで法学を学ぶも、体調を崩し、それ以降は家族の目が届く範囲での隠遁生活に入る。幼いころから文学への思いれは強く、執筆は相当に早い段階から行っていたようだが、実質のデビュー作である『ボヴァリー夫人』を書き上げるのは30代半ばである。良俗恥辱であるとして裁判ざたになった影響もあり『ボヴァリー夫人』は大変な売れ行きであったようだ。その後も著作や戯曲を発表していくが、評価は作品によって大きく異なり、発表当時にあまり認められなかった作品の一部は、彼の死後カフカなどの20世紀に活躍した文学者達に愛され、評価が見直されていくこととなる。

フロベールが生きた時代のフランスは王政⇒共和制⇒帝政⇒共和制と多くの革命や政体変化、更にはヨーロッパ諸国との戦争に彩られた激動の時代だった。ボヴァリー夫人』が発表された1857年のフランスでは、ナポレオン三世の帝政下初期の好景気を背景にパリ改造や鉄道の敷設、下水道の完備などが進められており、当時としては比較的平和な時代だったのではないだろうか。父の残した財産から、働かなくても困らない程度に富裕層であったフロベールは(晩年は新作戯曲の失敗から経済的に困窮する)、そうしたパリの変化を田舎で耳にし、憧れを抱きながら『ボヴァリー夫人』を書き上げていったのだろう。

どのページから開いても

ちなみに、今回紹介した新潮文庫版は訳者芳川氏が書いている解説が非常に興味深い。本書をめぐる裁判の話や、フロベールがどのように文体へこだわったのか、それを翻訳するのにどのような工夫がなされているのかが簡潔に記されており、本書の理解が深まる。

ストーリを楽しむのももちろんだが、上記のような文体への理解を深めていけば、どのページから開いても、詩を読むような気持で楽しむことができ、再読/精読へも最適な一冊である。

<オスマン帝国 繁栄と滅亡の600年史>~ややマニアックな大帝国通史

オスマン帝国というキャッチーな語感の帝国は、高校で世界史を学んだ人なら誰しもが聞き覚えがあるだろう。然し他のムスリム系の王朝同様、あまりこの国自体がフォーカスされることはなく、とある戦争の一同盟国として掲載されているだけであったり、しいて言えば東ローマ帝国(ビサンツ帝国)を滅ぼした国として記憶に残っている程度かもしれない。

少なくとも僕は「聞いたことはあるけど、そもそも現代でいうとどの国があるところ?」程度の印象でしかなかった。そもそも一時は大帝国と呼ぶにふさわしい領土を支配して、ヨーロッパ史にも大きな影響を与えている国にしては、通史として一般の読者が読める書籍は少ない。そんなかゆい所へ手の届いたややマニアックな大帝国通史『オスマン帝国 繁栄と滅亡の600年史』(小笠原弘幸著/中公新書

 

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オスマン帝国って今の国でいうとどこ?」という疑問に直接的に答えるとしたら、トルコ共和国が基本的には後継国ということになるだろう。ただ、黄金期におけるその統治地域はアジア・アフリカ・東ヨーロッパに跨っており、現代の国で数えるのならば20ヵ国以上を支配していたことになる。本書ではその大帝国が黎明期から滅亡に至る13世紀末~20世紀初頭までの600年を36人に上る国王の生涯と共に辿っていくことになる。

 オスマン帝国はその領土拡大に伴い、多民族+多宗教を支配下に置いたが、その統治方法は予想と反し比較的寛容なものであった。一定の権利制限や税収による差異はあったものの、宗教の自由は認められており、同じキリスト教徒であっても宗派の違いで時には迫害や虐殺が行われていた当時のヨーロッパ諸国と比べると非ムスリムの住民も大分過ごしやすかったのではないだろうか。それどころか、キリスト教徒の奴隷を王の側近として教育することで、地域に根差した勢力の増長を抑え、中央集権化への足掛かりとするなど極めて柔軟な運用も行われていた。

一方で、比較的有名な話かもしれないが、新たな王が即死する際には今後の争いを避けるべく「兄弟殺し」を行うという慣行も存在した。その他にも、極力他国から受け入れた王妃とは子を設けず、奴隷身分の女性に王子を生ませるなど玉座争いの火種を極力残さない努力が随所にみられる。この辺りは西洋史的感覚とはかなり異なるし、道徳的な側面は別にすれば、このような慣習が長期にわたる王朝の維持に貢献したのは事実だろう。

ムスリム系王朝入門

上記には個人的に興味深かった点をいくつか羅列したが、その他にもムスリム法に関する記載や滅亡に至る経緯など、王朝の歴史を多面的に紹介している。地味なことかもしれないが、各章ごとに当時の勢力図が示されており、読者へ親切な仕様になっている。普段、歴史関係の本を読むときはグーグルマップを片手に読み進めるのだが、地名が変わっていたりするので、これは非常に便利であった。

また、本書ではオスマン帝国の歴史は今まさに評価が変わりつつあるということが度々強調されている

オスマン帝国時代の歴史は、民族の自立が圧制によって妨げられた「暗黒時代」として否定されるべきものだったからである。
だが、オスマン帝国の遺産は、滅亡100年を迎えるいま、かつてないほど存在感を増しているようだ。

(一部省略)

今のトルコの人々はオスマン帝国を恥辱の過去とみなさず、これを自らのルーツとして表明することを憚らない。トルコ共和国以外の旧オスマン帝国統治下の国々においても、近年、学会を中心にオスマン時代を客観的に捉え直そうという動きが顕著である。

トルコ共和国が自らのルーツとして、オスマン帝国を掲げることで国内の一体感を高めいたいという政治的な理由も手伝っているのようだが、それが逆に歴史(過去)と現代を繋いている証にも感じられ、評価の見直しが進めば、更にそれが僕らの歴史認識を改めていくという循環にもつながるのだろう。

もちろん600年という歴史を概観だけでも捉えるのは新書一冊では限界がある。ただ、「西洋史は好きだけど、ムスリム系の王朝へ馴染みの薄いなー」という僕のような読者へは読みやすく大変貴重な1冊となるのではないだろうか。

 

 

 

<フランス王朝史>~わかりやすさが「ちょうどよい」フランス形成史

きっとだれもが経験していることだと思うが、高校生の時学ぶ世界史では1つの授業の中であらゆる国の歴史を浅く広くさらっていく為、「あれこの時日本ってなにやってたんだっけ?」「この国普通に広い領土を思ってるけど、君、いつからいたの?」的な疑問を抱く機会がしばしばある。(しかも、正直テストだけを乗り切るためには、あまり気にしなくていいことだったりするので、自ら調べない限り疑問も解消されない。)

そんな種類の疑問の西洋史版として僕が良く思ってたのは「西洋史ってローマ帝国からルネサンスくらいまでぬけてない?」ということ。個別の国で行けば「フランスは絶対王政とか言って、王様の絵が乗ってるとこまで名前すら聞かない」「イギリスは産業革命まで名前聞かない気がする」という感じ。

そこで手始めにフランスから行ってみようという事で、読み始めたのが、まさにフランスという国が形成される過程が「ちょうどよい 」詳しさで書かれているフランス王朝史三部作『カペー朝』『ヴァロア朝』『ブルボン朝』(佐藤賢一 著/講談社現代新書

ちょうどよいということ

僕的には歴史系の新書はこの「ちょうどよさ」が大事だと思っている。あまりわかりやすくしてしまうと、「ん?ちょっとこれとこれの間がわからない。」みたいなことになりがちだし、詳しすぎても「これだと全体の流れがわからない。。」ということになる。

本シリーズは各王朝毎に巻を分けながら、西暦987年に西フランク王国カペー朝が興った時代から1848年の二月革命までの約860年を描いている。日本で言えば藤原道長が朝廷で権力を奮う時代から、ペリー来航の直前くらいまでを新書3巻で書いているわけだから、駆け足であることは事実だが、フランスという国が形成される過程の概略を掴む入門書としては非常によくできていると思う。

実質フランス王と言っても、実質各地域に所在する豪族の一人にすぎなかったカペー朝、まさに現代で「フランス」と捉えられている地域の統一をほぼ果たした。ヴァロア朝はまだキリストの精神が支配するヨーロッパで宗教戦争に悩まされながらも、広大な領土の制度拡充/集権化に取り組んでいった。ブルボン朝は今までの騎士道精神から優美なベルサイユ式を推し進めることで、軍事的な支配だけではない文化大国として「フランス 」という国の精神的な支柱を組み上げていった。そんな姿を著者は最終巻の終わりで以下のように例えている。

犬に例えるなら、カペー朝の王たちはたまに番犬の役をするくらいの家犬だ。ヴァロア朝の王たちは、いつも走りまわされている猟犬である。ブルボン朝の王たちは、毛艶、骨格、肉付きと完璧に整えて、あとは優雅に歩いていればよいだけのショードッグ、そのために最高の栄養と最高の休息と、まさに「憂いひとつない」環境を与えられた、血統書付の生ける宝石なのである。

本シリーズは「王朝史」というだけあって、主にフランス内あるいはヨーロッパ内での事変や制度改革を中心に述べられており、植民地政策等の対外施策に触れらている点は少ない。加えてヨーロッパの中世~近代を捉えるに当たっては、1国だけを見ていても因果関係を説明しきれない部分がある。ただ、この辺りを含めて新書3冊でカバーするのは無理だろし、そこも含めてシリーズ化するとそれはもう膨大な情報量になり、とても入門者には耐えられるものではない。本書を読んで「更に詳しく知りたい!」と思う部分は読者毎に異なるだろうし、その好奇心に従って新たな本へ手を伸ばすのは読書の最上の喜びだろう。(僕は次はイギリスの物語へと手を伸ばすつもりだ。本書を読むとフランス/イギリスの深い関係がよくわかる)

国という概念

多くの人が持つ日本の歴史観(僕も含めて)は、「少なくとも本州~九州くらいまでは1000年でも2000年だろうと、どこまで時代をさかのぼっても日本は日本でしょ、」という感覚だと思うが、大陸の歴史は「ここは昔○○公国で、その後××になって、最終的にはフランスになったのはこの100年~200年も話です」みたいな地域が山ほどある。本書を読むとその過程がよくわかるし、EU問題やアイルランドなどでおこる独立運動の見え方も何となく変わってくる気がする。

海外の人と話すと自国の歴史について日本人よりよく知っている印象を受けることはないだろうか?(現代人がどこまでその感覚が残っているのかわからないが、)それは日本人と違って「この国が今の形であるのは(政治形態にしても領土にしても)自然なことではなく、いつ変わってもおかしくない」ということが、何となく国民通念として共有されているからではないだろうか。

ちなみにシリーズ化されているが、もし読者の中に「この時代だけ知りたい!」という方があれば、別にどれか1巻だけ読むのでも全く問題ないと思う。しばらく海外旅行には行けなさそうだが、夜寝る前だけでも華やかなフランスのイメージを味わい深く変えてくれる本書を是非手に取ってみてはいかがだろう。

 

 

 

 

 

<荒涼館/チャールズ・ディケンズ>~エスターと愛すべき愉快な仲間たち

50人は超えるであろう登場人物は、極端なまでに善悪に性格を振り分けたられており、時に矮小化が過ぎるのでは?と思うシーンもしばしば。しかし、彼らが織りなす魅力的な会話劇は、知らぬ間に読者をどんよりとした19世紀ロンドンの路地裏深くへと誘う。更にミステリー小説の要素も併せもつ本書は、目まぐるしく人称の視点を変え、多くの伏線を活用しながら、驚くべき真相へも迫っていく。ヒロイン(?)エスターと愛すべき愉快な仲間たちが繰り広げる文句なしの名作長編『荒涼館』(チャールズ・ディケンズ著/ 佐々木徹訳/ 岩波文庫

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訴訟と結婚

もし、この物語でヒロインを挙げろと言われれば、遠慮ぎみで道徳を重んじるエスターが筆頭候補になるのは間違いないだろう。ただ、彼女が占める重要な立ち位置と同じくらいに、重要で魅力的な登場人物がこの作品には多く存在する。この作品では章ごとに物語を語る視線が変わる為、読者は裁判所からスラム街へ、時には貴族の屋敷まで19世紀イギリス社会の隅々まで連れまわされることになる。

この泥深い日の午後の社交界を覗いてみよう。ほんの一瞥で足りる。社交界は大法官裁判所からさほど遠く隔たった世界ではなく、真っ直ぐにさっと移動できる。どちらも先例と慣習の世界

この作品がミステリー小説の側面も備えていることから、あらすじの紹介は一部に留めるが、この物語では訴訟と結婚が二本柱として機能している。(こういう言い方をすると離婚の為の慰謝料裁判のようだが、そうではなく)この二つは基本的には全く別々にで進むのだが、それに関わる人々は不思議と互いに交わる運命にあり、金銭問題や世間体など個々の思惑が入り乱れつつ物語は展開する。

時になかなか進まない物語にイライラしてしまう瞬間あるかもあるかもしれないが、そこはぐっと堪えて登場人物達の会話に耳を傾けてほしい。ほとんどはその人物を表現するべく描かれているように見えて、気づかない内に張り巡らされている伏線を見逃しているかもしれないからだ。伏線に触れないレベルで僕のお気に入り人物のセリフを一部紹介したい。

「この家の主が町に出かけ、ウナギを見る。そして家に帰り、奥さんを呼んで、「サラ、共に喜んでおくれ、私は象を見たぞ!」と言うとする。それは真理でーあろうか?」

スナグズビー夫人は涙を流す。

「あるいは、若き友よ、彼は象を見たとしよう。そして、帰宅すると、「ああ、町には何もなかった。ウナギしか見なかった。」と言う。それは真理でーあろうか?」

スナグズビー夫人は泣きじゃくる。

 どうだろうか。あまりにも意味がわからないと思うが、これはとあるインチキ(?)宗教家が夕食の場で行うスピーチの一部で、彼のインチキ具合が愉快な形で描かれている。もちろん彼もややマイナーキャラとはいえ、物語の主軸に無関係ではいられず、その後も度々登場することになる。 全4巻でわざわざここを抜粋するか?という意見もないではないが、それほど伏線を匂わせずに抜粋できる部分が少ない証拠と受け取っていただきたい。

19世紀半ばのイギリスとチャールズ・ディケンズ

『荒涼館』は1852年~1853年にかけて刊行されたヴィクトリア朝の大作家チャールズ・ディケンズの長編小説だ。

19世紀半ばイギリスは、フランスの二月革命/ドイツ諸国の三月革命等を中心としたヨーロッパ大陸での混乱を横目に、産業革命後の経済停滞からも復活し、未曽有の黄金期に突入する。ロンドンでの第一回万国博覧会には5ヵ月間で600万人を超す来場者を迎え、アヘン戦争/アロー戦争を通した清王朝との交易拡大やインド直接統治の開始など、イギリス帝国も拡張していくことになる。1860年代には、10人に1人が選挙権を有し、議会の主導者も中産階級出身者によって担われるなど、他国に先駆けた議会政治の成熟化も見られた。

チャールズ・ディケンズはそんなイギリスの中産階級の息子として生まれ、20代の内にエッセイ作家としてデビューするも、デビュー後は主に小説を中心に多くの作品を世に発表し、国民作家として一般大衆から高い人気を誇るようになる。『クリスマス・キャロル』の作者といえば、あまり外国文学になじみがない人もピンとくるかもしれない。

物語の隅々まで楽しんで

ちなみに、『荒涼館』は推理小説の側面も持つと言ったが、解説で佐々木氏が指摘する通り、後半に行くとあのシャーロック・ホームズを彷彿とさせる描写にも多く出会う。コナン・ドイルがホームズシリーズを出版するのは1891年からなので、この物語は、探偵冒険譚の走りとも言える所以だろう。

 また、私が紹介した岩波文庫版は発表当時同様の挿絵も掲載されており、カバーは当時の月間分冊の表紙が使われている。この辺りも当時の雰囲気を知るのに一つ大きな手掛かりになるかもしれない。

登場人物の多さに尻込みする方は、各巻の最初にきちんと主要人物が羅列されているので、ご安心いただきたい。(もちろん全員は網羅されてないと思うが、僕はそれで十分事足りた。)絶頂期のイギリスへ自ら飛び込み、物語の隅々まで楽しむ感覚を、もし誰かと共有できればこれほど嬉しいことはない。

 

荒涼館(一) (岩波文庫)

荒涼館(一) (岩波文庫)

 

 

 

 

 

 

 

<マンスフィールド・パーク/ジェイン・オースティン>~内気っ娘ファニーのドタバタしない系恋愛小説

突然見知らぬ親戚の家に引き取られた内気な美少女が、自然豊かなマンスフィールド・パークに住む人々と交わり、感受性豊かに成長する中で、生真面目な親戚家次男坊への恋心を募らせていく。

もし僕が、そんな『マンスフィールド・パーク 』のあらすじだけを聞いたならば、きっと「うーん、た、退屈そう。。」という反応をするだろう。しかし、読んだ後には、「いやいや、あらすじはあってるけど、、、魅力の説明不足が甚だしい!!」と思い直すこと間違いなし。個性豊かな住民達と繰り広げる内気っ娘ファニーのドタバタしない系恋愛小説『マンスフィールド・パーク』(ジェイン・オースティン 著/中野康司 訳/ちくま文庫

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主役ファニー以外のキャラの濃さ

この小説は三人称形式だが、ほとんどのことは主人公ファニーの目を通して語られている。三人称形式なので、ファニー以外の人物の内面も語られるが、基本的にはファニーがいる場所で物語は進行し、読者もファニーの内面にフォーカスしていくことになる。

ただ、はっきり言ってファニーは地味だ。いや、もちろん叔母からひどい仕打ちを受け、従姉妹達からバカにされながらも、健気に成長していく姿や想い人エドマンドへの嫉妬/愛情が入り混じった感情の動きは読者を強く惹きつける。

例えば、エドマンドが夢中になっている都会っ娘ミス・クロスフォードへの気持ちを(自分に惚れているとも知らずに)ファニーへ喜び打ち明けた後の、ファニーの心情描写などは、それまでのストーリーを追ってきた読者からすると共感せずにはいられない。

ああ!ミス・クロスフォードが彼にふさわしい女性だと思えたらどんなにいいだろう!もしそう思えたら、事情は全然違ってくるし、こんなに耐えがたい気持ちにはならずにすむだろう!でも彼は、ミス・クロスフォードを誤解しているのだ。ミス・クロスフォードが持っていない長所をさかんに誉めあげるし、彼女の欠点は昔のままなのに、いまのエドマンドには、彼女の欠点がまったく見えなくなってしまったのだ。ファニーはそのことを思ってさめざめと涙を流すと、激しく興奮した気持ちはやっと少し落ち着いてきた。そしてそれにつづく激しく落ち込んだ気持ちも、エドマンドの幸福を願う熱心な祈りによって、やっとすこしずつ和らげることができた。

ただ、そんな主役ファニーを押しのけるように、周りの人々のキャラが濃い。ファニーが預けられている準男爵バートラム家の人々だけでも、サー・トマス準男爵、バートラム夫人、長男トム、次男エドマンド、長女マライア、次女ジュリア、ノリス夫人と結構な人数がいる。物語の入り口、ファニーがバートラム家に迎え入れられるシーンには準男爵一家のキャラクターが象徴的に描かれる。

ノリス夫人は、一番先にファニー・プライスを出迎えるという手柄を立て、ファニーをバートラム家に案内して、その親切な手にゆだねるという大役を果たし、まさに得意満面であった。

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サー・トマスは、こういう内気な子は元気づけてやらなくてはいけないと思い、リラックスさせてあげようといろいろ気を使ったが、あいにくサー・トマスの態度は、非常にいかめしいところがあるので、なかなかうまくいかなかった。いっぽうのバートラム夫人は、夫の半分も努力せず、夫の十分の一も口をきかず、ときどきやさしそうにほほえむだけだった。

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でも二人の娘たちは、人前に出たり誉められたりすることに慣れているし、生まれつき内気ではないので、ファニーの自信のなさそうな態度を見ると、すっかり自信と落ち着きを取り戻し、ファニーの顔やワンピースを、冷ややかな感じでじろじろと見つめた。

更に、隣人グラント夫妻、都会ロンドンから一時的に身を寄せているクロスフォード兄妹など、物語の登場人物は多岐に渡る。それぞれがファニーへ一定の影響力を持ち、物語の進行に重要な役目を果たしていくのだが、特に女性キャラクターを描写する時、作者ジェイン・オースティンの筆は冴えわたる。

その中でも、僕の個人的なお気に入りはノリス夫人だ。彼女はあらゆるシーンに顔を出しては、持ち前のお節介を最大限に発揮して、場を乱していく。時には長々話した挙句、場を乱すことすらできずに、「なんでわざわざ発言したの。。」とため息がでる。でも「こういう親戚のおばさんいるよねーーー」と頷かずにはいられない。以下は物語中盤ファニーが社交界デビューする時のドレスをサー・トマスが褒め上げた直後のノリス夫人のセリフだ。

「えっ?ファニーがきれい?それはそうですとも!」とノリス夫人は大きな声で言った。「こんなに恵まれた身の上なんですもの、きれいになって当然よ。バートラム家に引き取られて、いとこたちの立派な礼儀作法を見て育ったんですものね。ね、サー・トマス、あなたと私が、ファニーのために何から何までしてあげたんですよ。

(一部省略)

あなたと私があの子を引き取ってあげなかったら、いまごろあの子はどうなっていたでしょうね。」

そもそもノリス夫人は自らファニーを引き取るといったくせに、住む部屋も金銭的負担もすべて姉の旦那であるサー・トマスにおしつけている。その上でのこの発言に対してサー・トマスの反応は以下。

サー・トマスはそれ以上何も言わなかった。

こんな形で物語の進行に合わせて、各キャラクターの描写は深まり、読者の前に(不?)愉快な人々が活き活きと起ちあがってくる。しかも、そんな濃いキャラクターに囲まれているせいで、一見地味なファニーの誠実さや道徳的な性格が、魅力的な『正義』として浮彫りになってくるのだ。作者ジェイン・オースティンとしてもそれを意図しているのだろう、なかなか報われないファニーも最後には幸せな結末が待っている。

19世紀初頭のイギリスとジェイン・オースティン

マンスフィールド・パーク』はイギリスの女流作家ジェイン・オースティンによって書かれた1814年刊行の長編小説だ。

19世紀初頭のイギリスは、ヨーロッパ中を騒がせたナポレオン戦争に対する最大功労者として各列強諸国に認められつつあり、1814年のナポレオン1世の退位に伴い、その評判は頂点に達していた。戦勝のお祝いに集まった他国の貴族/軍人を、ジョージ皇太子(後のジョージ四世でジェイン・オースティンを愛読していたらしい)が山海の珍味で盛大にもてなすなど、イギリスはまさにヨーロッパ随一の超大国として名乗りを上げたと言えるだろう。

一方、着々とすすむ産業革命により、一般民衆には不況の波が押し寄せていた。物語後半で里帰りするポーツマスの実家では、そうした中~下流層の生活環境と貴族バートラム家の違いにファニーが失望する様子が、彼女にしてはめずらしくはっきりとした言葉で描かれている。

マンスフィールド・パークの生活には多少の苦しみが伴うが、ポーツマスの生活にはなんの喜びもない」

 

ジェイン・オースティン自身は牧師の娘として生まれ、比較的裕福な家庭で極めて平穏な生活を送っていたようだ。この時代、女性は結婚しないと一生親兄弟に依存して生きていかなければいけないが、彼女は独身を貫いている。

マンスフィールド・パーク』は中流家庭の著者が観察した自分の周りの人々を、あこがれの貴族家庭のキャラクターへ投影していった、そんな作品なのではないだろうか。地味なファニーは著者がモデルで(ジェインが地味な性格だったかはわからないけど)、ハッピーエンドはそんな彼女の希望でもあったのではないかなんて思ったり。

きっと知ってる誰かを思い浮かべながら

今から200年前の小説なので、当時の時代背景も合わせて少しだけ紹介したけれど、実際読んでいる時は、自然とこの時代の雰囲気や風景になじんでいた。皆さんも、19世紀イギリスの自然豊かなマンスフィールドパークの風に当たりつつ、登場人物たちを見て、「あー、たまにこういう人いるよねーーー」ときっと頷きながら読んでもらえるのではないだろうか。